人間関係と慈悲の心

社会活動家であり一般システム理論学者・仏教学者のジョアンナ・メイシーさんの著書「世界は恋人 世界はわたし」のなかに、「慈悲」について書かれている場所があります。

そこにある慈悲の心の深さには自然と頭が下がるとともに、そうした慈悲の心を持って周りとの人間関係に臨めば、よい人間関係が築けるだろうなあと思う内容でした。

「世界は恋人 世界はわたし」のなかでは、ジョアンナ・メイシーさんがインドでチベット難民と過ごされていたときに大いなる慈悲の心を知った3つの体験が紹介されています。

1つ目は、慈悲の心を養う観想法を行った後に1人の苦力(クーリー)とすれ違った時の体験。

階層制度の中で厳しい肉体労働をさせられている人を見ると、いつもならそうした人から搾取する社会・経済体制への不満に意識が向くそうです。ところが、慈悲の心を養う観想法を行った後では違いました。目の前のその人に慈悲の心を向け、その人を見守り、喜びと悲しみで心がふるえ、この世でただ1人のかけがえのない存在としてその人の人生へと思いをはせることになったとそうです。

2つ目は、チベット僧侶とお茶を飲んでいた時の体験。

チベット僧侶とお茶をしながら、一緒に取り組んでいる活動について話していたところ、飲んでいたお茶にハエが入ったそうです。普通の人ならハエが入ったお茶は不衛生と思うでしょう。ジョアンナ・メイシーさんはそうした都会的な衛生観念にはとらわれていなかったので、とくにそのときは何かに気を取られて何かをすることはなかったそうです。

ただ、一緒におられたチベット僧侶は違いました。お茶が飲めるかどうかではなく、ハエが生きているかどうかに関心を向けられたそうです。ハエという人間よりもはるかなに小さな生き物に慈悲の心を向けられ、その命が奪われないようにお茶からハエを救い出し、ハエが身体を乾かせて飛べるようになる手助けをされたのを目の前で見たそうです。そのチベット僧侶の深い慈しみ知るとともに、1人の慈悲の心があらゆる生命にまで広がりうるということから限りない喜びを感じたそうです。

3つ目は、チベット僧侶からチベットから逃げて難民になった話を聞いた時の体験。

チベットが占領された時に中国軍は、そこに暮らす人々に対して非人道的な行為もしたらしい。その体験談をチベット僧侶から聞いたジョアンナ・メイシーさんは、ショックにあえぎ、わき上がる悲しみと怒りを押さえるために大きく息をついた。そして、その時に聞いたチベット僧侶の言葉に、彼女は大いなる慈悲の心を感じたそうです。

涙をこらえ、うるむ瞳と共に若いチベット僧侶はこう言ったそうです。

「かわいそうな中国人たち」、「こんなにひどいカルマ(業)をつくってしまって」

彼の涙は自分自身や仲間の僧侶たちぶ対してではなく、侵略者たちに対して流した慈悲の涙だったのです。
 
 
いかがでしょうか? 私たちがこうした慈悲の心を持って周囲との人間関係に臨めば、どのような違いが生み出されるのでしょう?

家庭内や職場、あるいは地域社会やコミュニティなどにおいて、困っている人、苦しんでいる人を見たときに、その人に慈悲の心を向け、この世でただ1人のかけがえのない存在としてその人の人生へと思いをはせたとしたら、あなたの慈悲の心をあらゆるところにまで広げたら、そこにはどのような行動が生じ、どのような人間関係が生まれることでしょう。

あるいはあなたの周囲の人間関係の中で、あなたを責める人、軽んじる人、傷つけるような言葉を向けてくる人に対して、「かわいそうな人だ」、「ひどいカルマをつくってしまっている」と慈悲の心をもって向き合えばどんなことが起きるのでしょう。

そこには過度に感情的にならず、相手の言っていることを受け止められるあなたがいたり、相手がそうした行動をとる背景に想いを馳せ、より本質的で創造的な対処に気づくあなたがいたりするでしょう。

誰かが誰かに向けて、責めたり、軽んじたり、傷つけたりするような言葉を発したとき、それは言っている本人を責めたり、軽んじたり、傷つけたりしています。脳科学的にも言われていることしたことは、お互いに悪影響を与え、人間関係を壊していくでしょう。

あなたはそうしたカルマを背負うのではなく、慈悲の心と共に在ることが大切です。

大いなる慈悲の心は、あなたと相手との人間関係を、より建設的で望ましい人間関係に変えていくでしょう。

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